●Beethoven
最近ほぼ毎日の日課にしているのが、ベートーヴェンの32のピアノソナタを一つ一つ楽譜を見ながら聴いていくことだ。
なぜ今更そんなことをしているのか、というと、自分でもよく分からない。
ただ今自分が考えている論理と感覚の関係を、ベートヴェンという最も西洋の論理性を象徴する作曲家の曲を聴いて、見直してみたかったのかもしれない。
私が持っているCDが番号順に並んでいないので、全く順不同に聴いている。
そこでまずあらためて感じるのは、彼の音楽の幅の広さだ。
一口にベートーヴェンというが、彼の32のソナタを一つ一つ聴いていってみると、「ベートーヴェンは・・・」という言葉は軽々しくは口に出来ない感じもしてくる。
それは、やはり彼が常に1曲1曲を個別化するために、それぞれの曲に個別のアイディアを配しているからなのだろう。
そのアイディアとはすなわち曲を統一する為の論理のようなものだ。
ベートヴェンという作曲家は西洋音楽の持っている論理性の最大の体現者である、という位置づけをその後の作曲家や研究者達はしている。
つまり彼ほど音楽において論理を突き詰めた作曲家はいず、また音楽における論理を突き詰めることの重要性を身を持って伝えた作曲家もいない、と
それはもちろん間違いではない。
しかし私はベートーヴェンの音楽には論理の枠組みを決めた上での、自由な感覚の飛翔のようなものをもっと感じるのだ。
別な言い方をするなら、より面白い感覚の飛躍をするために、論理的な保証をあらかじめ取っておいているような印象さえ感じてしまう。
私は後の作曲家、つまりブラームスなどの彼を強く見習った作曲家達はどうもそこの部分を見誤っていたのではないか、と感じてしまう。
彼らとベートーヴェンとの決定的な違いは、その「やってまえ」精神のような思い切りの良さと常に変なイメージを狙っているような一種のヤマっ気だ。
だからベートーヴェンの曲は絶対に小さくまとまらない。
私は毎日ソナタを聴いていて、段々に、彼が論理を逸脱しイメージを飛躍させる瞬間を待ち望むようになってきた。
がしかし、私は彼の論理性を軽視しているわけでは決してない。
その部分でさえやはり誰も真似の出来ない論理の構築をするのだから。
そしてそれがもたらす圧倒的な説得力を私は身を持って知っているつもりでもあるから。
論理と感覚の関係、これはクラシックや現代音楽をやっている限り永遠のテーマだろう。