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●Keith Jarrett

 

 自分が知っている音楽家の中で、誰に生まれ変わってみたいか?と訊ねられたら、おそらく「誰にも生まれ変わりたくない」と答えるだろう。
 それでも誰かを、と重ねられれば、敢えて言えばキース・ジャレットに生まれ変わってみたい、というふうに答えるかもしれない。

 それは別に自分があらゆる音楽家の中でキースが一番好きだ、ということとはつながらない。
 しかし私は彼を、自分の最も近しく、また最も遠い場所にいる音楽家として、深く愛してきた。


 私がキースの音楽の中で最も好きなフォーマットは、なんと言っても完全即興によるピアノソロだ。
 彼は非常に幅広い音楽活動をしていることで知られている。
 ピアノトリオやサックスを入れたカルテットなどによるジャズイディオムの活動、現代オーケストラ曲の作曲、民族楽器の多重録音、バッハやショスタコーヴィッチなどのクラシック・現代音楽のピアノ演奏、または彼自身の歌(!)を含んだポピュラー音楽・・・など。

 それらの中でも抜きん出て彼を特別な存在にしているのが、完全即興によるピアノソロなのだと思う。



 彼のピアノソロ演奏は、しばしば1曲40分にも及ぶ。
 その中では、ある場所に停滞したり、次の展開が見出せなく苦しんだり、飛び込んだ音響に対して落とし前がつかないような状況に陥ったりと、様々な出来事が起こる。
 有名な「ケルン・コンサート」は、しばしばその完成度の高さについて言及されているように思うが、全く馬鹿げていると私は思う。
 完成度を求めるならば、作曲をする方が十分に得られるに決まっているからだ。そしてキース自身、そのことは十分に知っている。
 彼は完成度を求めてこのような音楽をやっているわけでは決してない。


 また彼のピアノソロは語法的にはある意味で色んな様式のごった煮のようなところがある。
 ある場所ではストレートな7音による素朴なホモフォニー、ある場所ではバルトークのような音組織によるポリフォニー、リゲティのようなクラスター、ショパンのようなロマンティックなクライマックス、もちろんジャジーなイディオム、等々・・・。
 これら一つ一つの様式の種類や質について言及することも、特にマニアックな音楽ファンの中ではしばしば行われるが、彼のピアノソロを考える上では、あまり意味を成さない。



 では彼のピアノソロで最も重要で魅力的で、ワン・オブ・ゼムな事柄は何か?
 それは彼が40分にも及ぶ先の見えない時間の中で、どのように音楽的時間を生きたかを、聴衆が共にリアルタイムに体験していく、というその全体ではないだろうか。

 先がどうなるか、キース本人も分からない状態で演奏し、聴衆はそれを見守っていく。
 演奏が止まりそうになる瞬間は彼を応援し、音楽の流れに上手く乗ったときにはこちらもそれにさらに乗っかる。キース本人が感極まって声を上げればこちらも心の中でそれに反応し、音の動きに乗せてキースがステップを踏み始めれば、こちらも・・・という具合だ。
 これらはまさにドキュメンタリーなのだ。

 彼の持っている非常に肉体的で個人的で、またある意味超人的なピアノの技術、それらはドキュメントとしての彼の舞台をスリルと興奮、感動、またリアリズムを持って成立させるために、不可欠なものだったのだろう。


 彼は何も用意せずにステージに上り、40分もの間、自分の持っている才能や技術の全てを使って、様式的なことや完成度をある意味で度外視し、自分の脳にが命じるまま、不恰好さも厭わず、音のドキュメントを綴る。
 そしてそれを興奮をもって受け入れる聴衆が世界中にいて、会場に足を運び、キースと一体になるべくそのドキュメントに参加する。
 それは究極の意味でのライヴ・ミュージックなのではないか?

 これはクラシックやロック、ジャズなど全てを見回しても、今までになかった音楽表現・受容のあり方であろう。
 だがひょっとしたらこれは最も原初的な音楽のあり方なのかもしれない、と感じるのは私だけであろうか。


 私はそれら全体が羨ましい、と思ったのだろうと思う。

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