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●Boulez

 

 遅ればせながらだが、ピエール・ブーレーズが死んだ。

 訃報を耳にして、やはり改めて自分の中では思い入れがある作曲家だと感じたので、少し書きたいと思った。


 ブーレーズが戦後の世界の作曲界に対して深甚な影響を与えたのは間違いない。
 それはポジティヴな面でも、ネガティヴな面で見てもそうなのだろうと思う。
 この両面というのは表裏になっていて、双方が互いに影響しあっているので、スッパリ割り切れた話で語ることは難しい。


 例えば、彼の大きな業績の一つに、戦後の作曲の流れを大きな意味で導いていった、という部分がある。

 第2次大戦までの何十年かというのは色々な意味で時代は混迷を極め、もちろん作曲界も例外ではなかった。
 19世紀末のヴァーグナーのような、時代を圧倒的にリードしていく存在もいず、様式も恐ろしく多様化していた。おそらく様式がこれほどまでに多様化したのはそれまでの音楽史上、初めてのことだったのだ。


 そこで大きな戦争があった。ヨーロッパは一度瓦礫の山になった。その時1945年、ブーレーズは20歳だった。


 これらは歴史の綾というべき他はないようなタイミングなのだったと思う。全てを彼が刷新するための舞台は整っていた。そして彼は現れた。圧倒的な音楽的才能と知性、そして政治力とも言えるようなカリスマ性を携えて。

 彼は音楽を新しく作り替えていくための軸足を、ヴェーベルンという、それまでのカオスの作曲界の中にあってはほんの小さな、異端な作曲家の遺した仕事に置いた。

 豊饒さを極め、調性や形式の膨張を推し進めた後期ロマン派、新しい音響の可能性を示し、音楽の語り口を刷新したドビュッシーなどの印象派、その後フランスを中心として非常に流行した懐古的な新古典主義、初期のストラヴィンスキーやバルトーク、コダーイなどが推し進めた民俗音楽の再構築、19世紀とあまり変わらずにブラームスやチャイコフスキーなどのロマン派をそのまま推し進めたようなロシア、北欧などの辺境の作曲家、またアメリカではジャズや映画音楽との絡みでの流れもあった。そしてその中のごく小さな流れとしてシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンからなる、新ウィーン学派の、完全無調への探求もまたあった。

 その多くの中で選ばれたのが、ヴェーベルンだったのだ。

 


 ヴェーベルンという作曲家の作品は、特に後期になると、ほとんど結晶のような完全な論理性がベースに置かれていた。その結晶のような完全な音響や構造を、ほんのわずかにバランスを崩させながら音楽が進んでいく、そしてしかし全体として俯瞰すればやはりほぼ完全な構築体を築いている、そういうものだった。
 音響的にも、テクスチャーも、簡素な楽器編成も、曲の短さも、全てが当時としては異端であり、ポツンと独り浮いていたような音楽だ。対位法ということだけが、伝統性を感じさせる要素だが、それも一聴して伝わるほどの分かりやすいものではなく、その対位法の概念そのものが今までのものとは違うので、純粋にこれを対位法と言っていいのかもわからない。


 まあとにかく重要だったのは、過去やその当時の因習から全くと言っていいほど無関係で宙に浮いており、にもかかわらずそれでいてそれはキッチュではなく、完全な論理的な整合性や説得力を備えたものだった、ということだ。 


 このヴェーベルンという作曲家の方法に、ブーレーズは軸足を置いた。


 彼は「タブラ・ラーサ」という言葉を使った。「絶対零度」というような言葉もよく使ったように思う。
 つまり完全に手垢のついていない「無」から音楽を始める方法論として、ヴェーベルンの方法を採用するのが、最も有効だと考えたのだ。
 その後はよく聞かれるトータルセリー云々という話になっていくのだが、それはここでは割愛しよう。

 


 圧倒的な音楽的才能と、知性、そして政治性を持った彼は、それまでの因習に囚われた戦前の作曲家を、ペンで厳しく批判し、ドラスティックに切り捨てていく。彼のパリ音楽院の作曲の師匠だったメシアンも例外ではない。ヴェーベルンの作曲法を生み出すきっかけになった、十二音技法の創始者であるシェーンベルクも例外ではなかった。


 そこで彼は「絶対零度」を体験するための様々な試みをしていく。
 そしてそれに追随しない者に対しては、容赦なく断罪し、切り捨て、強引にその流れを作っていくのである。
 もちろんその「絶対零度」が音楽的に面白いかどうかということは、そこでは問われていないのだ。「絶対零度」を体験するところからしか、戦後の音楽の再生はありえないのだ、というアジテートが彼から激しい調子で発せられた。

 これらに同調したのがシュトックハウゼンやノーノといった作曲家達で、彼らがブーレーズをリーダーとしながら、恐ろしく強引な形で音楽界の流れを決定づけていってしまう。


 私見だが、その当時のブーレーズの「ストリュクチュールⅠ」のようないわゆる「絶対零度」の作品は僕にとっては全く意味をなさないし面白くもない。これらは当事者にとってだけ、または歴史的意味という観点だけでしか、評価しえないものなのだろう。もちろんそれはそれでいいのだ。

 


 戻るがこれらの急進的で強引な時代における存在感は、ある意味、彼が嫌ったファシストのようなやり方でもあっただろう。もしくは言い方を変えれば急進的なマルクス主義者のような感じともいえる。


 原理主義だ。

 マルクスのテクストを聖典として、またコーランを聖典として、その教義に対する純粋性を踏み絵にするような姿勢。彼にとってヴェーベルンの作品はコーランであり、マルクスのテクストだったのだ。

 このような状況が、世界の作曲界にとって健康ではないことが明らかなのは言葉を待たないだろう。しかしそういう時代だったということも言える。

 


 「絶対零度」を経験したブーレーズはその後、音楽的豊かさを、慣習的なものに簡単に汲みしないようなやりかたで慎重に染みこませていく作業に入っていく。その作業には細心の慎重さが感じられた。当然だ。気を抜けば「絶対零度」によって音楽が白紙になったところに簡単に過去の因習を組み入れていくことになるからだ。

 その後豊饒さは徐々に増していき、60年代中盤以降ほどの作品には、官能性までが豊かに入ってきた。もちろん一度経験した「絶対零度」を彼が忘れることはなく、常に手綱は引き締められてはいた。その結果非常に厳しく、かつ豊かな傑作の数々が生み出されることになった。

 私はこの時代のブーレーズの曲を真に愛しているし、大きく影響された。


 豊饒さを得た彼の音楽はある意味では現代のドビュッシーのようにも感じられたし、厳しく抑制されていながらも魅力的な音響、華麗で縦横無尽で説得力のあるテクスチャー、時に圧倒的なパワーの持続、複雑で迷宮のような形式感、そしてこれが重要なのだろうが、論理的な担保を取った上での即興性、それらは私を大きく打ちのめした。決して超えることのできない憧れとして、自分の中で大きな存在となっていった。

 特に好きな作品を挙げれば『エクスプロザント・フィクス』、『レポン』、『2重の影の対話』などだ。信じられないほど繰り返し聴いたし、涙が出るほど感動したことも何度もあった。


 結構詳細に分析して為になったのは、比較的楽譜の入手しやすかった『デリーヴ』、『メサジェスキス』、『2重の影の対話』あたりだ。特に前者2つは若い頃に楽譜が入手できたこともあり、また曲の規模も小さいため、かなり詳細に分析した記憶がある。分析してみるとこれらの作品は極めて強い論理性で貫かれており、もちろんそれによる構築や音響の統一感や説得力は非常に深みのあるもので、自分の作品と比べた時に、自分はなんと感覚的に、まあある意味いい加減に作曲しているのか、と身につまされた記憶があるが。

 

 彼の功罪というのは、やはりある。書いてきたように彼が原理主義に走りそれを政治的にプロパガンダし過ぎたため、戦前にカオスのようだった作曲界の多様性が一気に失われてしまったことだ。
 息を止められなくてよかった作曲家が相当数息を止められてしまったこと、これは功罪だろう。


 またその音楽の多様性をジャズやロックなどの軽音楽の分野にすべて渡してしまったのもこれと関係があるだろう。結果として現代音楽と呼ばれる分野は先細りになっていった。
 ほんのわずか、ケージ、リゲティ、クセナキス、武満、ライヒ等の本当にわずかの作曲家だけが、別の異なった発言をする力があったという感じであろう。それらは救いだった。

 ただ先程からも述べているように、これらには時代のタイミングと綾のようなものがある。簡単にブーレーズを批判することは難しいし、避けなければならないだろう。

 

 最後に彼の演奏の分野について少しだけ触れる。
 私は彼のクラシックの演奏には全くと言っていいほど興味がなく、例えば彼のマーラーやブルックナーを聴いてもさして感銘を受けたことがない。
 ただ現代音楽の分野で彼の演奏について果たした功績は、比肩させられる人間は一人もいないほど偉大だ。
 スコアをしっかり読む。正確に演奏する。正確に演奏できるところまで奏者の水準を引き上げる。これら基礎的なところでそもそも非常に難しい状況にあった当時の現代音楽界にあって、彼は粘り強くその質の改善を推し進めた。
 これは彼がいなければこれらが今でも違った状況にあるのは間違いないだろう。

 

 ブーレーズが亡くなったことで、いよいよ前衛という時代が終焉を迎えた感じだ。
 いやとっくに前衛は終わっていたのかもしれないが。
 
 今あらゆる分野の音楽が袋小路にある。様式は多様化しカオスのようでいて、その実、妙に整理されているような不思議な感じもある。

 その妙に整理されている感じは、本当はブーレーズは嫌いなのじゃないかなとも思うし、私も嫌いだ。

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