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●Jeff Beck

 

 一番好きなギタリストは?と問われれば、迷わずジェフ・ベックと答える。
 ではその中で最も好きなアルバムは?と訊かれれば、これも迷わず「ブロウ・バイ・ブロウ」と「ワイアード」と答える。


 ギターの歴史はそれほど短いものではない。今の形に成立したのはおよそ19世紀だ。
 基本的にギターという楽器は伴奏楽器で、和音を鳴らすものだった。
 しかし徐々に奏法が開発され、独奏楽器として和音を鳴らしながら、旋律も奏でるような形態が出てくる。
 しかし全くの単音による旋律楽器としては、その表現力は同じ弦楽器のヴァイオリンや、管楽器などには比すべくもなかった。


 革命が起こったのは、ギターに電気的なピックアップが付加されてからだ。
 そしてその後のギターとアンプの改良により、十分なサステインと音色感を得ることが出来るようになり、ギターは別の領域に踏み出した。

 つまり単音の旋律を十分に奏でることができる楽器として成立し始めた、ということだ。
 これは全く違った楽器として生まれ変わった、と言えるほどの重要な変革だ。



 私は、旋律を奏でる楽器としてのギターにおいて、ヴァイオリンや管楽器と同じ領域の表現力に達した例を、ジェフ・ベックの上の2枚のアルバム以外に知らない。
 私は、これらにおいて初めて、ギターが真の意味で旋律楽器になったのだと思っている。



 まずジェフ・ベックにおいて非常に重要なのは、その音色への飽くなき志向だ。
 この時代には、ギターは非常に強くオーヴァードライヴされた刺激的な音色を得ることができるようになっていた。
 しかし彼が選んだのは、当然のように非常にナチュラルなオーヴァードライヴだった。

 その意図は明確で、この程度のナチュラル・オーヴァードライヴが、最も音色の幅が広いからだ。
 ピッキングの強弱によってクリーンなサウンドも強いオーヴァードライヴも得られ、さらにピックの当てる角度や位置、またトーンツマミの操作、重弦などによっては、音色が無限の可能性を得ることができる、そういうアンプとギターのセッティングが選ばれた。
 繰り返すが、これらはクリーンな音でも、オーヴァードライヴされつくした音でも得ることができない。ギターを少しでも弾いたことがある人ならば誰でもよく知っていることだ。

 ただ注意したいのは、彼の場合、音色の多様性を得ることそれ自体、が目的とはならなかったということだ。

 彼はこれらの音色の可能性を以って、フレージングを作り出そうとしたのだ。

 この点が他のギタリストとは大きく違う。この時代の他の多くのロックギタリストはフレージングを犠牲にして刺激的なサウンドに向い、ジャズギタリストは微細な音色の差異によるフレージングにとどまった。

 彼のフレージングへの志向性は徹底している。
 彼はこれらのアルバムで、旋律を管楽器などの旋律楽器と同レヴェルでフレージングするだけでなく、またそれらとは違った、ギターならではのフレージングの方法を考える地点にまで達していたように思える。
 自分の口をつけて息を吹き込む管楽器、また奏法そのものがフレージングと密接に結びついているヴァイオリンなどと違い、ギターの場合はある旋律を奏でる際に、よほど意識的でないと、フレージングに対して注意が払われない(それはある意味ピアノという楽器も一緒だ)。
 この点には、純粋に彼の音楽的な側面が垣間見える、と言っていいだろう。



 さらに挙げたいのが、その奏でられる旋律の自発性の高さだろう。
 彼の音楽における、旋律の発生の仕方は全く淀みを感じない。旋律が自発的に発生してきているのがよく分かる。
 彼は自分に聴こえた音を確実にリアライゼーションできる数少ない音楽家の一人だ。

 またこれだけスムースに自発的に旋律が発生してくる場合、先に挙げたフレージングという部分が一緒に発想されないわけがない。
 彼は間違いなくフレージングと共に旋律を発想していたはずだ。
 よって彼は自分の生み出す旋律に全く合致したフレージングを施さないわけにはいかなかった。
 彼があのような、フレージングを十全に表現できる音色、を選んだのは、彼の音楽との関わりにおいて当然だったのだ。


 これらのことは「ブロウ・バイ・ブロウ」の2曲目、「シーズ・ア・ウーマン」を聴いてもらえれば何よりも明白だろう。



 その他多くのギタリストがロックやブルース、ジャズといった様式的な部分に拘泥して、エレキギターの様式を窒息させていたのに対し、彼は全く違った視点でギターに関わった。

 これらのアルバムが、ロックとジャズのクロスオーヴァーであるとか、耳障りが良くロック的な何かを失ったとか、そういった言説は全くどうでもいいことだ。

 重要なのは、これらのアルバムが全く新しいギター音楽を切り開いた、ということで、それがゆえにこの音楽はギターという枠を超えた、ある一つの音楽としてこちらに迫ってくる、ということだ。



 残念なのは、これ以降、ベック自身も含めて、これに匹敵するギター音楽を聴くチャンスがない、ということだ。

 技術的にやサウンド的に新しいアプローチは数多くある。しかしこの2枚のアルバムほど、ギターが旋律楽器として音楽に近づいた例は、いまだない。

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