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●Brahms

 ブラームスという作曲家はそれほど好きではない。
 ここでは本来的には好きな音楽家について語るのだが、例外的に彼を取り上げたい。
 それは私が彼の音楽を好きではないということの中に、自分自身においても、また恐らく他の人にとっても、様々な示唆やある種の真実が含まれているように思うからだ。

 


 私はブラームスの音楽を沢山は知らない。好きでないからだが、まあそれでも主要なものはひと通りは聴いてはいるしそれなりには楽譜も見ている。私にとってはおそらくはそれで十分だ。

 まず作曲家としての彼のテクニックは恐らく最高の水準だと思う。
 高い構築力、模範的とも言える動機労作、隙なく丹念に敷き詰められた和声、熟慮された転調のプラン、入念な対位法、楽器に対する深い理解と常によく鳴らし切れるオーケストレーション。
 実際に私が若い頃、作曲の勉強をするのにはブラームスを分析しろ、とは私の師やその他の方々からも言われたし、それは恐らくある面で正しい。
 しかし私はそれに対して、あまり気が進まなかった。当時から彼の音楽にどうしても魅力を感じなかったのだ。

 

 私は分析というのを基本的に勉強の為にやってはこなかった。好きでたまらない曲の中がどうなっているのかを知りたい一心で楽譜を穴が空くほど見ていたに過ぎない。

 

 そんな私にとって、魅力を感じないブラームスの分析をするのはやや腰が引けたていたが、数少ないそれなりに好きな曲から徐々に始めていった。
 まあ主に後期の曲、例えばクラリネット五重奏、ピアノ小品などだ。またそこから始まり、それほど好きでなかったがシンフォニーやコンチェルトなど徐々に深めていった。

 


 その中で少しずつ分かってきたことが、まず彼の中に根本的に潜んでいる歌謡性、メロディへの欲望だ。
 なぜそういう表現をするかというと彼本人がそれを十分に肯定している感じが伝わらないからだ。
 もちろんそれは、構築的なソナタ形式の中で歌謡性というのが害がある場合が多いにも関わらず、彼は立派なソナタ形式を作ることをある種義務付けられていた存在だった、というのがあるのだろう。
 彼の旋律はある意味で言えばやや臭みのある、誤解を恐れずに言えば演歌のような旋律が多い訳だが、それに対してもどこか申し訳なさそうな感じが常に漂っている。同時代の辺境の作曲家たちのように堂々と演歌を歌いまくる、というのは、慎み深く、ドイツの歴史の後継者を自他共に認める彼には無理だった。

 彼の作品にはベートーヴェンのような旋律に対する振り切った姿勢というのは見られない。
 どちらかと言えばモーツァルトのように旋律と構造を両立させたいのだろうが、あの奇跡的なバランス感覚というのは残念ながら真似のできるものではないのだろう。

 


 しかしブラームスがその他凡百と異なっているのは、その歌謡性のある主題を論理的には完全に構造化してはいるところだろう。楽譜を見れば見るほどその主題の展開に関して隙はない。それどころか模範的としか言いようがないようなほどでもある。

 

 だが分析しているうちに、このブラームスの論理性というものの目的が段々分からなくなってくるようなところがある。
 考えたのは、ひょっとしたらこの論理性は、彼の音楽の正当性や実力を担保し、自分の歌謡性を単に正当化するための道具になってしまっていたのではないか、ということだ。

 


 そもそも論理性とはなぜ必要なのだろうか。
 多くの人にとって音楽に論理性が必要とは考えられていないだろう。
 しかしそのような人にこそある意味で論理性はバックグラウンドとして強く作用していることを忘れてはならないだろう。

 

 論理性とは音楽を首尾一貫させ、わかりやすくさせるものだ。

 

 小節ごとに違う要素が混入すれば脈絡を認識できなくなる、調性を失い12音を何の規則性もなく無作為に使えば音の方向性を見失なう、全く音にリズム的な周期性が見られない場合、発音に対する期待感や裏切り感を感じられなくなる、など、論理性は主に音楽を認知させるのを助ける役割を担っている。

 

 逆を返せば、複雑でチャレンジングな音楽ほどそれを意識する必要性が高くなり、平易で一般性の高い音楽ほど作り手にも聴き手にもその意識の必要性が少なくなる傾向がある訳だ。
 だから普段平易なポピュラー音楽しか聴かないあるいは作らない人に論理性は必要ない可能性が高い。
 言い換えればそれらの平易な音楽というのは、もう十分に強固過ぎるほどに論理的だということなのだ。

 


 ベートーヴェンがなぜ強く論理的だったか、これは前にも書いた事があるが、彼は変なことやチャレンジングなことをやるために論理性を担保にしていたようなところがあるからだ。
 あれほど変なことをやるためには、強く論理的でなければ、簡単に音楽が破綻してしまう。
 こういう感じは例えばドビュッシーなんかにも形を変えて現れている。
 彼らは基本的に冒険者だ。冒険者にはコンパスが必要なのだ。

 


 さてブラームスだ。彼の作り出す論理性にはそのような匂いがしない。
 彼の論理性はどこか自分の音楽の評価や価値を高めるための、またその歌謡性への欲望を正当化するためのものな感じが、私にはどうしてもしてしまうことろがある。
 作曲家としての正当性、実力、権威、そういうものを担保し、自分からしたらやや恥ずかしい歌謡性をも正当化する、そのための論理性。
 あまり前向きな感じがしない。

 

 これに繋げて言えば、だからかもしれないが彼の音楽からは彼の意志のようなものが伝わってくる場合が多い。
 音楽が自律しているふうに聞こえづらい音楽だ。いつも彼が何かをやっていると聞こえる感じの音楽。
 こういう音楽に私はとても没入しにくい。
 そういう彼の音楽の中で最もスッと入ってきやすいのは結局は歌謡性の部分なのだ。そして残念ながら私は彼の歌謡性の質があまり好きではない。

 


 後期のピアノ小品というのは、彼の作品の中で数少ない私が愛するものの一つだ。
 歌謡性そのものを隠さない。そもそも大曲ではないため、無理に論理性を強める必要性も少ない。そしてまたその歌謡性そのものが洗練され、質が明らかに高くなっているというのも見逃せない。
 またこれまでの彼の音楽になかった抽象性というものが入ってきているところにも注目したい。
 これまでの彼の音楽にはなかった、糸が解けそうなバランスをもった楽節、これは美しい。
 彼が老齢に達していたことも関係あるだろう。抽象性というのは若いうちには誰しも書きにくい。ある意味での高度な遊び、余裕、そんなものだからだ。

 


 彼はロマン派の作曲家が皆そうであったように、時代に翻弄された。
 あらためてベートーヴェンという巨人の存在を思わずにはいられない。皆彼の開けた穴から流れ込んできた濁流に押し流され、自分を見失った。
 ほんの一部のショパンなどの欲のない作曲家だけが濁流から身を引き、小島に引きこもって自分の歌を紡いだ。
 皆がちゃんとしたソナタ形式、ちゃんとした変奏曲、対位法、立派な交響曲、協奏曲…、そういったものを書かなければと狂奔し、他人にもそれを求めた。
 しかし現実にはそれに本当に向いた人材はいなかったし、同時に湧き上がってきていた歌謡性に対する流れの方が皆適性を備えていた。
 だけど皆無理をしてソナタを書いた。結果、奇妙な歌謡的なソナタが爆発的に量産されるようになった。

 その最後に位置したのがブラームスなのかもしれない。

 彼はその晩年の時期、彼自身のそれまでの創作をどう思っていたのだろうか。
 彼は何故最後に大きなソナタを捨て、小品に向かったのだろうか。
 彼は奔流に流され続けた自分を対照化していただろうか。

 ベートーヴェンは何かをやってしまう人間だった。何かをやってしまうために緻密に論理を用意するような。

 

 彼は、保身ではなく何かをやってしまうような自分、に憧れなかったのか。

 


 私はブラームスのことを考える時、これらのことを自分に照らしてしまう。
 これらは人ごとでない。
 自分は、何かをやってしまう人間なのか。

 ブラームスから学んだことは実は多い。

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