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●Mahler

 マーラーという作曲家は、作曲を実際にやっている人の中では評価の割れる作曲家だと思う。

 結局のところそれは、音楽に完成度や整合性を求めるか否かで割れてしまうのかもしれない。
 もし音楽にそれらを高く求めるのであれば、マーラーはそのリストから除外されるのだろう。
 そもそも彼は音楽に完成度を求めなかった。いや求めてはいたのだろうがそれよりも別のことを優先したのだ。
 実はこうした姿勢は当時はあまりなかった姿勢だった。


 まず彼は当時、非常な人気指揮者だった。アルマとの結婚がゴシップになるくらいの言わばスター指揮者ではあったのだ。
 彼は基本的には作曲家としてではなく、指揮者として求められていたし、私は聴いていないから何とも言えないが指揮者としての能力は極めて高かったようだ。
 よって彼はオーケストラのことを知り抜いていたし、オーケストラを使って作曲するのも極めて自然だった。
 オーケストラが彼の楽器だったのだ。彼にとってのピアノと同じく、もしくはそれ以上に。


 彼はオーケストラ全体を一つ一つ本当に自分が演奏するかのようなイメージで楽譜を書いているのだと思う。
 彼はある意味ではオーケストラを即興させているような感じで書いている側面もある。言わばジャズのビッグバンドの奏者が全部自分、そんな感じと言えばいいのかもしれない。
 実際楽器の扱いにソリスティックな面も多く見られる。
 彼のスコアの楽器に対する書き込みの執拗さを見ると、細かいニュアンスまでこうして欲しいという願いのようなものが伝わってくる。もっと言えばそれを強制するような感じすら。
 彼の楽譜の書かれ方は、それまでの作曲家の楽譜の書かれ方とは少し違うように思う。それまではその時代の様式や常識を前提にしてある程度まで書いて、後は奏者がそれらを元に判断するというのが、それまでの楽譜を通したコミュニケーションとしては普通だった。
 しかし彼は、その後の例えばジャズミュージシャンが楽譜に書かれない細かいニュアンスを演奏にふんだんに盛りこみ、むしろそういうニュアンスこそが音楽を聴かせる上でのベースになっていったような表現を先取りしているような感じもする。


 それと関連するのだが、彼の音楽に対位法はそれなりに使われるが、彼の対位法の書法は実はそれ程模範的ではない。リズム面でもハーモニー面でもあまり噛み合わせが良くない場合が多いのだ。
 縦よりもそれぞれの線の欲求や自発性が優先されるような書き方だ。その結果方々で声部の美しい噛み合わせは失われる。
 模範的な対位法ではないのは間違いないが、しかしある意味で非常にリアルな対位法の書き方なのかもしれない。
 そんな所も先述のビッグバンドのような感じを連想させる要因になるのだろう。
 もちろんこの場合、完成度を求めるのは難しくなるのは当然だ。

 例えば近い時代の様式の似た作曲家にリヒャルト・シュトラウスがいるが、彼とはこの点は全く違う。シュトラウスはある意味完全でかつ流麗な対位法や和声を書くし、形式的な面も含めて、その全ては完全にコントロールされている印象を受ける。
 マーラーは、先程述べたような演奏表現の面を除けば、彼自身の作曲をコントロールしきれているとは言い難い面がある。
 がそれがある意味では彼の中では重要なことなのである。
 彼は作曲に自分の何かを込めるような作曲家だった。その時の心象、感情、意識の流れなどをだ。

 基本的には彼はそれらを丹念に記していくような感じで音を紡いだのだろうと思う。計画はあまりしないし、整合性や完成度はひとまず脇に置くのだ。音楽が進んでいく中でのその時の浮かび上がってくるイメージ、感情、慟哭、衝動などをありのままに記していく。
 当然形式や調性の配置が破綻したり、稚拙になる部分が出てくるし、その長さもコントロールされたものとは到底言い難いものになる。
 ある意味では、キース・ジャレットのソロ・コンサートなんかに似ているかもしれない。
 このような音楽の書き方はそれまではあまりなかったものだったのは間違いない。非常に特殊だ。

 ここから浮かび上がる彼の音楽の肝になる面というのは、彼の長い音楽とは逆説的に、刹那の表現、ディテイルの表現だということだ。
 その瞬間の感情や、揺れのようなものが表現されているかどうかに、ある意味全てがかかっている。勿論その為のディテイルでもあり、また彼の形式的な乏しさやある意味でのプランの単純さなどを覆い隠すものにもなっている。
 そして勿論このディテイルへの依存は先程述べた、楽譜の書き方の話とも繋がってくるのだと思う。

 彼の音楽のディテイルというのは非常に魅力的である。少なくとも私にとっては。
 ちょっと抗し難いようなほどで、聴いていて骨抜きにされるような強い魅力を持っている。
 彼の音楽には歌が重要な意味を持っている。実際歌曲を多く書いたし、交響曲にも歌を頻繁に使った。
 人間の声による歌というものはやはりディテイルの極致でもある。歌ほど再現性に乏しい楽器はなく、だからこそそれはディテイルに満ちることになる。


 彼の音楽というのは若干乱暴に言えば、結局のところどこかしら歌と伴奏のホモフォニーという感じがする。
 勿論彼の曲には対位法も沢山含まれているのだが、一番彼の根本にあるのはそのようなホモフォニックなもの、もしくは後期に顕著なヘテロフォニックなものだと思う。根本の発想というかやりたいことが対位法的ではない。それぞれの線としての自由な動きを重視することによって対位法の如きものができているに過ぎず、対位法的なの立体性を備えていない。これらは武満ともどこか通じるところがある。
 そのようにして一つの旋律に圧倒的なディテイルを乗せて歌が歌われる。時には声で、またある時は第一ヴァイオリンで。

 彼のアダージョへの偏愛というか強い拘りも、これらと繋がって来るわけだが、彼は時代が後になればなるほど、アダージョ的な音楽に対して強い偏愛を見せていく。
 2番の終楽章、5番の4楽章、8番の終結部、大地の歌の終楽章、9番の1、4楽章、10番等だが、彼がこれらの楽章に音楽的に最も重きを置いているのは、どう見ても疑いがない。
 旋律の襞が存分に感じられるような、そのディテイルに耳が向かざるを得ないような緩いテンポに乗せて、魅力的な旋律を何度も何度も繰り返し歌うような音楽、そういう感じだ(それはやはりどこか武満っぽい)。

 そして、これらのアダージョが特にその楽曲の最後で使われたことには、新しい価値観の創出があったようにも思う。
 雛形になったのは恐らくヴァーグナーのトリスタンなのだと思う。イゾルデの愛の死。この極めて魅力的なオペラの終結部は恐らくマーラーに強い印象をもたらしたのだと推測される。おそらくはチャイコフスキーの6番ではない。
 しかしそのトリスタンの雛形があったことを差し引いても、これらで表現された音楽の終結の仕方がもたらす敗北感、昇華感、厭世感、終末感は極めて独特だ。ここには時代性が色濃く反映されている。クラシック音楽が健全であることを許されなくなりつつある時代。

 新しい感覚、つまりフォルテの強打で音楽が終わることに対する恥、というよりもそのリアリズムのなさに耐えられなくなってきていることを強く伺わせる。

 また、あまりマーラーの音楽を語る時にこういうことを言いたくない面もあるのだが、それらの終結に対する感覚には辺境の出の彼の、中央の音楽への絶望的な憧れとその不可能性、また自分の人生に対する絶望、のようなものもどこかしら感じざるを得ない面もある。


 マーラーを聴けば聴くほど、分析すればするほど、彼の音楽の技術的な部分ではない、センスや感覚の新しさが際だってくる。
 マーラーの音楽は須く長大わけだが、聴き方は思いのほか現代的な聴き方、つまり刹那的なディテイルに寄った聴き方を許す音楽である。

 私はクラシック音楽を志そうと思う前の、ジャズやロックに染まった極めて現代的な聴き手であった時に、アダージェットを聴いた。
 そして今まで音楽を聴いていて感じたことのない全身的な震え、感動のようなものに支配された。
 次の日には私はクラシック音楽を志すことになんの躊躇いもなかった。まあ、若かったのでもある。

 その後クラシックの作曲を長い間学び、マーラーの音楽の完成度の問題や、形式的な破綻や混乱、プランの単純さなどを理解するようになってもなお、私の中で彼の音楽の細部の魅力は色褪せない。

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